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2009年01月01日

●Web年賀状

世間は株安に円高、経済成長率はマイナス成長。
100年に1度の金融危機だとか。
社内では虚礼廃止を推奨。
年に一度の年賀状も気軽に出せる世の中では無さそうである。
そこで思いついたのがWeb年賀状。
これなら何方にも見て頂けるし、経済的である・・・かも!?





今年の賀状のデザインは「愛」の一文字。
NHK大河ドラマ“天地人”の主人公・直江兼続の兜の文字である。


ここで少し歴史の勉強を・・・


直江兼続は、1560年樋口兼豊の嫡男として誕生した。幼名を与六といった。
与六の聡明さにいち早く目を留めたのは、上杉謙信の姉で、坂戸城主長尾政景に嫁ぎ、
後に兼続の主となる上杉景勝の母・仙桃院であった。
そうして兼続は、仙桃院の推挙によって、景勝の近習に取り立てられた。

景勝が家督を継いで間もない1581年、重臣直江信綱が、刃傷沙汰に巻き込まれて
死亡する。
越後の名家直江家の断絶を惜しんだ景勝は、信綱の未亡人おせんに兼続を嫁し、
直江家を継がせた。
兼続22才、おせん25才の時のことであった。
ここに「直江兼続」が誕生する。

1586年、兼続は、主君景勝と共に初めて上洛する。秀吉と会見の後、
同年中に帰国する。
その後も何度か上洛し、秀吉と交誼を結ぶ。

秀吉の死後、徳川家康は景勝の上洛を促すが、景勝は領国経営を理由にこれを拒否。
兼続の知己である僧承兌の書状に対する兼続の返書(「直江状」)に激怒した家康は、
会津討伐を決意。家康は上杉を討つべく会津へ向かう。

小山に到着した家康は、石田三成挙兵の報を受け、息子の結城秀康を宇都宮に残し、
上方へ向かう。
敵に背を見せた家康に対し、兼続はあとを追うことを景勝に進言するが、
景勝はその言を容れず、上杉軍は最上攻略に向かう。

急遽矛先を変えた上杉家であったが、まもなく関ヶ原での西軍の敗北の報を受け、
撤退をする。
このとき、2万余騎の自軍の殿軍を、兼続がみごとに務めたという。

その後、家康に和を乞い、上杉家は米沢30万石に減封される。
家康に歯向かったにも関わらず、減封だけで罪が免れた影には、
兼続の政治工作の努力があったという。

4分の1に減じられたにも関わらず、ほとんどの家臣は上杉家を去らずに米沢へ移った。
移った当初はなんとか風雪をしのげるような仮住まいであったらしいが、
兼続の総監のもと、着々と町づくりが進められていったという。

町づくりを進める一方で、兼続は近江国友から優れた鉄砲鍛冶を雇い入れ、
軍備の強化も図った。

1614、1615年の大坂の陣に参戦。特に冬の陣では長男景明と共に殿軍を務め、
戦功により、徳川秀忠から感状と太刀一腰および小袖を与えられた。

1619年12月19日、江戸鱗屋敷で死去。60才。
米沢徳昌寺に埋葬、後に米沢林泉寺に改葬された。


愛の字の前立を付けた理由は、愛宕明神や
愛染明王など軍神的な要素を取り入れた説。
上杉謙信の『義』に対するの教えを学び、
愛国心を常に持つためなど、色々と説はあるが
どれも正確な説はなく由来の資料もない。
故に直江兼続が愛立物を付けた理由は定かではない。





・・・と言うことを新年初めの勉学として

本年もどうぞよろしくお願い致します。
皆様のご多幸をお祈りいたします。

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